およそ「材を取る」ことなしに建設的な思考はありえません。そしてその材は、毎日の暮らしのなかから得られるものです。 理論研究であろうと具体研究であろうと同じです。
バートランド・ラッセルの言葉--「外に向かう関心は、なんらかの活動をうながします。それは、その関心が生きている限り、倦怠 を完璧に予防してくれます。逆に、自分自身に向かう関心は、前向きの活動につながらないのです」(1)。
以下、日々の関心を外に向けるためのヒントまで。
およそ「材を取る」ことなしに建設的な思考はありえません。そしてその材は、毎日の暮らしのなかから得られるものです。 理論研究であろうと具体研究であろうと同じです。
バートランド・ラッセルの言葉--「外に向かう関心は、なんらかの活動をうながします。それは、その関心が生きている限り、倦怠 を完璧に予防してくれます。逆に、自分自身に向かう関心は、前向きの活動につながらないのです」(1)。
以下、日々の関心を外に向けるためのヒントまで。
「でも、どうやったら外への関心を持てるようになるのでしょう」という相談を受けることがあります。
答えはいろいろあるかもしれません。が、次のことは言えると私は考えています。すなわち、「それをあなたの性格や資質の問題だと考えないことです」と。なぜなら、もともと外への関心が欠如している人などいないからです*。
しかし、残念なことに、私たちの社会は、外へ向かう関心の芽やきっかけを、必ずしも尊重してくれません。逆に、関心を外に伸ばそうとしても、「個人的なトラブルじゃないか」とか「あなたの価値観の問題でしょう」と、押し殺されてしまうことが多いのです。
そのうえ、多くの場合、現今の教育体系のなかでは、探究の方法を学ぶこともありません。たとえば、文芸作品についての「感想文」は誰もが書かされた経験を持っているでしょう。これに比べて、社会問題について調べたり、その結果についてレポートにしたりする練習をしたことがある人は、それには遠く及ばないのが現状ではないでしょうか。
機会や方法を奪われた状態なのに「外への関心や社会性に乏しい」と言われる。関心を持とうとすると、今度は「偏った主観」が論難される。いずれにせよ「個人の心の問題」 にされてしまうわけです。
これはいわば関心封殺メカニズムだと言うことができます。多くの人は、その落とし穴におっこちてしまっているだけ。「あなたの性格や資質の問題だと考えない」こと。それがこの落とし穴からの脱出法です。
関心を外に向けるためにあなたの性格や資質を改造する必要はありません。そのための方途や技術を知ればよいだけのことです。すでに持っている道具を使い始めればよいのです。
「なんでも欄」「なんでも帳」は、そのおすすめでした。いわば、私のジャーナル(日誌)。「手帖」と呼んでも、ぴったりくると思います。ただ、なにがぴったりするかは、人によってちがいがあると思います。読書から始まる人もあれば、会話から始まる場合もあるでしょう。
自分が書き込んだことがらは、生きています。それは「使える」知識になるのです。それは与えられたものではなく、それを「わがもの」として獲得したのです。
同じことは読書のときにも言えます。「じっと黙って読む」のではなく、それを「作業」にしてしまう。つまり、線を引く、抜粋する、要約する、時に音読してみる、といった「行動」にすること。新聞記事なら、切り抜く、貼る、といったプリミティブな作業が案外に重要です。
新聞などは、ウェブ判で見てパソコンのノートソフトなどで貼り付けておく、といった作業もできなくはありません。そのほうが手軽かもしれません。しかし、その難点は、まさにその手軽さにあるように思います。つまり、手軽なのでついなんでもコピペして「とりあえず置いておこう」にしてしまう。そのうち、なにをどこに保存したかもわからなくなり、いつのまにか「巨大なゴミ箱」同然と化したパソコンの整理整頓のため机の前に釘付けにされ、動いているのはクリックする指だけになってしまっている……といったことになってしまうのです(少なくとも、私の場合は)。
それよりは、「ちょっと手数かもしれないが」を心がけたほうが、それだけ選択を強いられることになり、かえって効率的であるように思います。
こうした「作業化」の意義は次の通り。
情報とはこのようにしてアクティブ化されます。考える素材としての「資料」になるのです*。
新聞を読むときも、「切り抜き」をしようと思って読むと、「どれが自分にとって有意味な記事か」と注意して読むようになります。テレビでドキュメンタリーを見ようとするときも同様。
ウラの記事もおもしろいから困る、という「悩み」をよく聞きます。しかし、困らないで、むしろ喜んでください。「どちらかを選ぶ」、つまり関心をしぼりこんでゆくための絶好のチャンスです。
選択の基準は、「あなたがそれを使う」こと。考えを進めたり作品を作ったり人と話し合うのに「使える」こと。「大切そう」と思われるものは、「使えそう」かどうか、と、言い換えてみてください。
上に引いたラッセルの言葉は、もう数十年も前の学生時代の読書カードを使って引いたものです。読書カードとは下のようなもの。
解説すると以下のようになります。
これをたくさん作って、原典ページ順にならべると「本のあらすじカード」になります。見出し語ごとにまとめたらオリジナルの「ワードブック」ができます。
いわば、「自分の辞書」「自分の事典」づくり。
カードとはこのように、何種類かの並べ替えができ、何度でも復元できるというところに、特徴があります*。
私は他に「執筆カード」「集計カード」「着想カード」を作っています。なかなか見直してみる時間がないのですが、作ること自体にも意味があると感じています。
資料は身の回りにたくさんあります。
たとえば、博物館の入館券、街でもらったチラシ、映画のパンフレット……
「ナンデモ箱」(ファイルボックス)を作っておいて、気になったものはどんどんほうりこんでゆけばよいのです。
私はいま牛乳のパックを集めたりしています。どんな表示がなされているか、それがどんな生産方法や流通方法を示しているのか、どんなイメージ戦略がそこにあるかなど、考えるヒント満載です。
たまってきたらA4クリアファイルに統一して右肩にタックシールで見出しをつけ、整理します。規格を統一するのが整理の基本です。
写真も思い出の写真ではなく資料写真ならばこちら。
次の二つの文章を比べてみましょう。
足尾銅山跡を訪ねた。長い歳月にわたり掘削されてきた坑道はきわめて長い。現在、その一角に資料館があり、鉱山の歴史を学ぶことができる。
足尾銅山跡を訪ねた。400年にわたって掘削されてきた坑道は総延長1234キロ。現在、その一角に資料館があり、鉱山の歴史を学ぶことができる。
訪れたときにもらったパンフレットさえとっておけば後者の文が難なく書けるわけです。訪れたときに撮った写真が並んでいれば写真文集ができあがるでしょう。
こういうことを心がけていれば、他者が書いた文章を読むときも、「資料や証拠にもとづいて書いた堅実な文章」と「印象や伝聞ばかりで書いた危うい文章」とのちがいが、わかってくることでしょう。
ちょいとした木組みないしスチール板の、ホームセンターで組立式のを売っていそうな、たいていは5段か6段程度の、そんな本棚でけっこうです。
少なくとも文科系の人は買うべきです。
本棚には「本しか置いてはいけない」という思いこみは、捨ててかまいません。ノートはもちろん、CDもDVDも並べてけっこうです。切り抜き資料の置き場にしてもかまいませんし、ファイルボックスを並べても良い。
資料がたまってくればフォルダーに束ね、これが大きくなるとボックスになり、それが並ぶと棚、という階層構造で考えても良いでしょう。
本棚は「自家製資料館」です。
書棚整理の鉄則は「たてとく」こと。つまり、背表紙がこちらを向いていること。(まぁ、部屋が狭い場合はいたしかたない場合もある)。
背表紙が隠れている資料、つみあげてある資料は、その存在を忘れ、手にとらないようになります。奥に隠れているなんていうのは言語道断。引き出しの中も好ましくありません。
写真のように二重に並べてしまうようになってしまうと、もはや書棚ではありません。
いわゆる「カラーボックス」は役立ちません。案外に場所をとるし、本棚にするには奥行きがありすぎるので、すぐ多重にモノを入れてしまい、奥のものが見えなくなるのです。安物はカドも危なそう。
多くなってきたら、安全への配慮も必要でしょうね。つまり地震対策。体験を通して言えば、敷物でカベ側にすこし傾けるだけで、ぜんぜんちがいます。
「どんな本を読んだらいいのですか」という質問を、非常にしばしば受けます。
私の答えはふたつ。まず、「それは自分で探すしかないのです」。というのも、その質問は、「私は誰を友達にすればよいですか」と、同じだからです。
次に、「まず本屋さんか図書館で1時間ねばってみてください」。
最初から「ネットで探そう」なんて横着をしてはいけません。本屋さんや図書館では次のような行動をとってみるのです。
「まず入門書から」というふうに思いこまなくてかまいません。入門書・概説書は、確かにわかりやすく書いてあるのですが、詳しいところは省略せざるをえないので、かえってわかりづらい場合も多いのです。(自分が書いた概説書も……A^^);
本を選ぶ規準は次のとおり。--「これから持って帰ってすぐ読む本」。
「そのうちためになるはずだから」という本は、持って帰って、とりあえず本棚に置いて、そのままずっと読みません。自分はそこまで勤勉じゃない。
いま自分はなにを知っていて何を知らず、さらに何を知れば自分の考えがすすむのか。--これに気づくために「1時間」ねばって「今すぐ読みたい本」 をさがすという条件が必要なのです*。
ただし失敗もつきものでしょう。私は野球の打者なみの規準でみています。「3割あたれば名選手」。7割は凡退しているのです。読書家は、読まなかった本もきっと大量に持っているにちがいありません。
お金もかかるでしょう。ある程度はしかたがありません。でもむろん損失は少ないほうがよい。図書館を最大限に利用してください。また、「すぐ読む本」を選ぶところから始めてみるのは、「そのうち読むから」の「その実は衝動買い」による散財を避ける手段でもあります。
本の重要度は、いろいろです。
数時間で読了できる本と、四苦八苦しながら一ヶ月かけて読むべき本。狭義の情報を求めて読む本と、古典として自分のモノの考え方じたいを育ててもらう本。
それに応じて「読み方」をかえる必要もあります。私は次のようにレベル分けしています。
分類A …… 古典として読む。かなり詳しい抜粋か要約をノートをとり、自分の解釈やメモなども書き込んでゆく。
上は私の読書ノート。左頁には原典の写しないし要約。右頁に、それについての解釈や疑問などを書き入れておく。
分類B …… ノートにあらすじ程度を書き込んでゆく。または、「あらすじ」ができるほどカードを取る。欄外に自分用の「小見出し」を入れて ゆく。
分類C …… 読むときに線を引いたり付箋紙を貼ったりする。気になるところ、関心を持ったところだけ、カードにとる。
分類D …… ともあれ、読む。 走り読みやかじり読みも含む。
分類E …… たてとく。必ずたてておく。「そのうち読むんだぞ」という視線をこちらに送ってもらう。横にしておいてある本もあるが、それはもはや死蔵に近い。
あなたは、あなたを無活動にする部屋に住んでいませんか。私の場合、部屋が雑然としていると、なにをするにも気が進みません。なんだか「しなければいけないこと」が、途方もなくたくさんたまっていて、とてもこなせそうにない、鬱だ……そんな状態になるのです。
これに対して、部屋が整理できていると、何か仕事がしたくなります。ちょっとたくさんの仕事くらい、「ひとつひとつこなせば、ほら、もう終わり」と、快調です。
「整理できている」は、「机の上に何も乗っていないこと」ではありません。「何がどこにあるか自分が把握できていること」です。
机に書きかけのノートがあり、本が開いたままになっている、といった状態でも、 次に机に向かったときすぐに「ああ、ここからだった」と仕事にとりかかれるならば、それはとてもよく「整理」できているのです。逆に、「何がどこにあるかわからない」状態では、頭の中まで「何から始めればいいんだ」状況になっているのでしょう。
「蔵書の数がきわめて豊富な図書館でも整頓されていないならば、ごく小さな、しかしよく整頓された書庫ほどにも役に立たないのと同様に、非常に多くの知識をもっていても、それが自己の思考ですっかり咀嚼されていないならば、はるかに少ない知識でもいくたびかくりかえし考え抜かれたものにくらべると、その価値は著しく劣るでしょう」 --アルトゥル・ショーペンハウアー(2)。
部屋を、この、「ごく小さな、しかしよく整頓された書庫」にし、「少ない知識でもいくたびかくりかえし考え抜」くための道具にすると良いのですね。
「座右の書」とよく言います。この場合の「座右」は単に「身近」の意味ですが、おそらくこれは右利きを前提とした「身近」でしょう。しかし、文字の通り「右」に置いてある人はどのくらいいるのでしょう。
私は、それにあたる書物や資料はむしろ左手側に置いてあります。右利きだからです。右側にそれを置いてあると、右手に持ったペンとかマウスをいったん置いて辞書をとることになる。これと同じ原理で、よく使う本はフリーハンドになりやすい左手側に置いておくのが私にとっては合理的なのです。
ところが、自宅の私の古い机は--なにしろ小学校のとき買った学習机ですから何十年も前のもので--左側が狭いのです。その原因は、一方の袖だけ 、つまり右側だけに引き出しがついていることです。これが「右利き用」を前提としているのだったら、この机のデザインは左利きの人のことを考えていない、バリア含みのものであるということになります。が、右利きの人にとっても、 そのおかげで左側が狭くなってしまうのは問題です。
これを解決するため、私は楽器屋さんに行って、譜面台を買ってきました。そうすると机のスペースをはみ出た左側に本を置くことができ、そのぶん、作業スペースが増えるからです。
自分の利き手はどちらか。自分は作業のとき左右の手をどんなふうに使い分ける習慣を持っているか。--それによって机の左右になにをどのように配置するかを、考えるべきです。
パソコン時代の到来とともに、私の机まわりは大きく秩序が崩れました。机の大部分がパソコンと周辺機器(プリンタやスキャナ)に占領されてしまったからです。
しかも、それは「使い勝手」の次元を超えた問題でした。
たとえば、かつてやっていた新聞切り抜きを私がいつのまにかやめてしまっていたのは、自分が怠け者になったからではなく (それもあるかも知れないけれども、それ以上に)、その作業をするスペースを失っていたからです。なにしろ机の正面部分がキーボードでふさがってしまっていたのですから。これでは、「パソコン作業しかするな」と言っているようなものです。
私は愛用の机で本を読まなくなっていましたし、ノートやファイリングなどの作業もしなくなっていました。また、それ以上に悪いことに、その原因に長いこと気づかなかったのです。 そしてこう考えがちでした--「根気を持たなきゃ」「また頑張らないと」、と。
原因とは、自由な平面だったものが特定の道具の置き場に変化した、ということです。つまり、これは「私にとってデスクとはどういう場所なのか」の根本が変化したことであったのです。いろいろなことをする平面だったものが、パソコン台と化していたことであったのです。
そのことに気づいたあと、私は作業台を別にもうけました。パソコン作業をおこなうコーナーでは切り抜きもファイリングもできない、とふんぎったのです。
が、さらにそのあと、実に単純なことに気づきました。「キーボードをちょっとどかせることはできないか」。たとえば、キーボードを立てれば、それだけで机に平面が現れるのです。そういう文具があるはずだ……と思って探したのですが、なかなかありません(あるけど案外に高かったりする)。そこで、ないものなら作ってみようというわけで、ブックエンドと磁石を組み合わせて、作ってみました。
「習慣」とは本当におそろしい?もので、こんな単純なことに気づくまで、パソコン導入以後、およそ20年を要したのです。
このコーナーも同様ですが、他者のやり方は、そのまま模倣すればよいものではありません。そうではなく、自分の凝り固まった習慣的思考から一歩離れて、「あ、こんな方法でもいいんだ」ということに気づくところに、その価値があるのだと思います。
(1)Russell,B., [1930]1954, The Conquest of Happiness (Abbreviated edition), NAN'UN-DO: 5.これは、南雲堂から出ていた学習用の英文テキストである。岩波文庫から翻訳が出ていることを後に知った(安藤貞夫訳、1991、『ラッセル幸福論』)。訳書における該当個所は16頁で、訳文は次のとおり。「しかも、外界への興味は、それぞれ何かの活動をうながし、それは、その興味が生き生きとしているかぎり、倦怠を完全に予防してくれるのである。反対に、自己に対する興味は、進歩的な活動に至ることは決してない」。 →本文へ戻る
(2)ショーペンハウエル、石井正訳、[1851]1966、『みずから考えること』、角川書店: 24頁。ここでは、この本の表記に従って「ショーペンハウエル」。 →本文へ戻る