言及のこんな「?」が気になるようなあなたはもう本格的な文章作品を書き始めているにちがいありません。ご参考までに。
言及のこんな「?」が気になるようなあなたはもう本格的な文章作品を書き始めているにちがいありません。ご参考までに。
本を読んでいると、次のような箇所がありました。かりに、天馬という姓の著者が2003年に発表した本の89頁の一部としましょう。どう引用すればよいでしょうか。
確かに、検討した結果として他者の意見と一致することはあろう。御茶ノ水が述べるとおり「検討もせずに引き写す」ことと 「検討した結果として肯定的に引用する」こととを混同してはならない(御茶ノ水 2001: 54)。
ここからレポートへ次のように引用するのは、どれも誤り。
1 天馬によれば、検討もせず引き写すことと、検討した結果として肯定的に引用することとを 、混同してはならない(天馬 2003: 89)。
2 天馬によれば、検討もせず引き写すことと、検討した結果として肯定的に引用することとを 、混同してはならない(御茶ノ水 2001: 54)。
3 御茶ノ水によれば、検討もせず引き写すことと、検討した結果として肯定的に引用することとを 、混同してはならない( 天馬 2003: 89)。
4 御茶ノ水によれば、検討もせず引き写すことと、検討した結果として肯定的に引用することとを 、混同してはならない(御茶ノ水 2001: 54)。
どうしていけないかと言えば、それぞれの場合、
まにあわせの方法はこう。
天馬によれば、検討もせず引き写すことと検討した結果として肯定的に引用することとを混同してはならないと、御茶ノ水は指摘した(天馬 2003: 89)。
天馬によれば御茶ノ水はこう指摘しているという。すなわち、検討もせず引き写すことと、検討した結果として肯定的に引用することとを、混同してはならない、ということである( 天馬 2003: 89)。
ただしこれは俗称「孫引き」と言って、できるだけ避けるべき引用形式なのです。なぜなら、直接に確認していない情報に依拠することは基本的に好ましくないからです。
本当は、「この御茶ノ水さんの言葉を借りよう」と思った時点で、御茶ノ水の原典をさがして読むべきなのでした(原典主義)。だから、もっと正しくは、 天馬も御茶ノ水も読んだうえで、こう。
御茶ノ水によれば、「検討もせず引き写すこと」と、「検討した結果として肯定的に引用すること」とを混同してはならない(御茶ノ水 2001: 54)。 天馬も、この御茶ノ水の見解を肯定的に引いて、同趣旨の見解を述べている(天馬 2003: 89)。
孫引きでも許されるのは、次のような場合でしょう。
書物には「資料」という意味で、文献リストを掲載する場合があります。しかしそれは、「そのような書誌情報を収集したこと自体に価値がある」ような場合のこと。
当然ながら、「並はずれて網羅的だ」とか「すぐれた見識による選択がなされている」といった評価が得られなければなりません。たまたま手近に見あたった文献を並べているのではないのです。
したがって、通常のレポートで、本文で言及もしておらず、じっさい読んでもいないのに、「世の中にはこんな参考図書がある」といった文献リストを掲げるのは、まちがいです。「本文で言及した文献のリスト」つまり「参照文献」「言及した文献」が正しいのです。
原典に次のような文があった場合、
現代社会にとっての怪物「リヴァイアサン」は何か……
これを引用するとき、次のように『 』化するのが普通ですが、
「現代社会にとっての怪物『リヴァイアサン』は何か」 (早田 1994: 43)……
しかしこれでは、もともとの文言のなかに書名・誌名・紙名などを示す『 』があった場合と、記号の上では区別がつかなくなります。
「もともと『リヴァイアサン』とは社会契約説にたったホッブズが怪獣『リヴァイアサン』の喩えを用いて」(早田 1994: 44)……
なので、「 」のなかに「 」があるという表記法をすることがあります。
「もともと『リヴァイアサン』とは社会契約説にたったホッブズが怪獣「リヴァイアサン」の喩えを用いて」(早田 1994: 44)……
が、このやり方は必ずしも一般的ではありません。次のような形で引用するときもあります。
『リヴァイアサン』という書名の由来について、早田は次のように説明している。
もともと『リヴァイアサン』とは社会契約説にたったホッブズが怪獣「リヴァイアサン」の喩えを用いて書物のタイトルにしたものである(早田 1994: 44)。
早田のこの解説によれば、ホッブズの意図は……
長い引用のときはこうする「べきだ」という規程がある場合もありますので、ご注意ください。また、この場合も「引用」であることを示すために「 」を入れる場合があります。その場合は、本文のなかで引用するときと記号的には同じことになります。
『リヴァイアサン』という書名の由来について、早田は次のように説明している。
「もともと『リヴァイアサン』とは社会契約説にたったホッブズが怪獣「リヴァイアサン」の喩えを用いて書物のタイトルにしたものである」(早田 1994: 44)。
早田のこの解説によれば、ホッブズの意図は……
一般に、「 」は次のどちらか。
これの他に、
たとえば次のような場合は、引用の一種。「一般的語法の保留付きの引用」です。
1) 大衆化とともに進展する「管理社会化」の問題が……
2) 「障害」についての医療モデルにもとづく見解は……
1)「ほら、あの、よく言われている」、「だけど説明していたら長くなっちゃうビッグワードだからとりあえずこれで許してください」、「あとで説明はするから」……という気持。
2)「本当はこういう言葉は使いたくないのだけれど」、「一般的語法を踏襲して、やむをえず使います」。
いずれも、「いわゆる」とセットで使えば、ハッキリするでしょう。
これも「引用」の一種でしょう。
御茶ノ水の「にんげん中心主義」とは……
引用のまちがいかもしれないと誤解されるのを避けたいときには、原典からそうなっていることを示します。
天馬によれば「マルクスの唯心論」(天馬 1989: 94.原典のまま)
該当個所にルビ(ふりがな)をいれて「ママ」でもかまいません。これは「原典のまま」という意味。
応用して、次のような、著作の倫理に関連する用語法も、原典主義です。
1)攻撃的・暴力的・下品などなどであって、自分は使いたくないが、資料に忠実に引用せざるをえない言葉。
2)悪意のない慣用句として古い著作に出てきたけれども今日的には注意して用いるべき言葉。
3)一般には注意すべき言葉だが、すぐれた見識で捉え直されている言葉。
1) 御茶ノ水によれば「無価値な人々」(御茶ノ水 1917: 14)は……
2) 天馬によれば「盲目の衝動」に突き動かされた人々は(天馬 1942: 63) ……
3) 杉田が吟味している「くるい、きちがい」観とは(杉田 1971: 128) ……
いずれも、引用の該当部分にルビで「ママ」とすればよいでしょう。 もっとも、3)の場合は、文言から、ただの不注意とか差別的意図とか時代的限界ではないとわかりますので、なくてもかまわないと思います。
ちくいち原典を示すほどではないが、明らかに他者のキーワードを意識して用いる場合。または応用なので原典に忠実とも限らないので示す必要性が小さい場合。これも非常におおまかには「引用」の一種。
「橋」と「扉」は似ているところがある……(実はジンメルの議論を念頭に置いていたりする)
「声」に対する「耳」の倫理学が……(実はデューイの応用だったりする)
また、とくに原典として誰を念頭に置いているわけではないけれども、自分のなかで目立たせたいキーワード。たとえば次のような場合。
ここで私が「アイデンティティ」という言葉に込めている意味は……
しかし、ただ目立たせるだけだと、次のような難点があります。すなわち、
「カギ概念」を目立たせるために、あるいは「こういうふうにすれば読みやすいだろう」という意図で使うのですが、これでは「他の用法との識別が難しいので混乱」(田辺 2005: 12)しやすい。
そこで<こういうカッコを使う>ときもあります。でも、やたら記号が増えてしまうのも考えもの。やはり、「鈴木によれば」等の文言をできるだけ丁寧に入れ、また引用注を厳密にするのがよいでしょう。